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2016年3月31日木曜日

ヴィパッサナー随想 #5 -- 意識は集団催眠のための道具である


[写真はバンコクの街角のシヴァ神]
みなさん、こんにちわ。
ぷちウェブ作家のとし兵衛です。

今回は少しヴィパッサナー瞑想の話からは横道にそれて、人間の意識という不思議な現象について書いてみます。

ヴィパッサナーは仏教の瞑想法であり、世界を正しく見るための練習であることは、前に書きましたが、仏教で言う「正しく見る」ということの中に、「無我」という考えがあります。

「無我」とは文字通り、「自分というものはない」ということです。

「そんなこといっても、自分はここにあるよ」と当然思われるでしょう。
けれども、例えばヴィパッサナーなどの方法によって、言葉を減らしていって、実際に起こっていることを、こまかく見ていくと、「自分」だと思っているものが、ただ、言葉でラベルを貼っていただけのものに過ぎず、実は存在しないことが最終的には分かるのだと、仏教では言うわけです。

分かりやすいところからいきますと、あなたが大切にしている茶碗があって、家族がそれを割ってしまったとします。
あなたはがっかりして悲しい気持ちになったり、怒りが湧いてきたりします。
「自分の茶碗が割れてしまった!!」というわけです。

けれど一体「自分の茶碗」というのは何なのでしょうか。確かにそこに「茶碗」はありました。その「茶碗」は割れてしまいました。けれど、そこにくっつく「自分の」というラベルは、あなたがそう思い込んでいるというだけのことではないでしょうか。

毎日毎日、これは「自分の」茶碗だ、と思って使っていたから、そう思い込んでいるだけのことで、ほかの家族も知っているとか、法律上はどう、ということも含めて、すべてはあなたや、家族や、世間の、思い込みにすぎないのではないでしょうか。

これは哲学的な議論ではなくて、ただあなたが、どう感じ、どう考え、どう行動するか、という話です。

「自分の」という観念がなければ、ただ「茶碗」が割れただけですから、あなたは悲しみもせず、怒りもせず、「茶碗が割れたな」と認識するだけのはずなのです。

こうした見方が、あなたのすべての物の見方において徹底したとき、「自分」は消え、「執着」も「嫌悪」も消え、心の落ち着きだけが残る、というのが仏教のもともとの考え方です。

さて、ここで、脳科学の話になりますが、スーザン・ブラックモアという作家の書くところによると、「経験の統合された流れ」としての「意識」というものは錯覚にすぎない、という立場が最近では科学的なものとしてあるのだそうです。
(例えば http://s.ameblo.jp/zhiliangzhi/entry-10748554129.html 参照)

ここで「意識」といっているものを「自分」というふうに読み替えると、仏教の見方とほとんど同じに思えます。

この「自分はない」し、「意識は錯覚」だという立場をとったとき、では、その「意識」はどういう役割を果たしているのか、というのが、今回書きたいことなのですが、
「意識は集団催眠のための道具であり、人間が社会生活をするためには不可欠なものである」
というのが、ぼくの仮説です。

この見方からすると、仏教の教えは、「集団催眠から覚めることによって、人は苦から逃れられるのだ」ということになりましょう。

また、ぼくが敬愛するカルロス・カスタネダの著作に書かれていることは、「普通の世間の見方も、呪術師の見方も、それぞれに異なる催眠状態にすぎないので、戦士はその二つの世界を自在に行き来し、催眠状態にとらわれないのだ」ということになると思います。

少し舌足らずで分かりにくいかもしれませんが、今回はこのくらいにしておきます。

以上、今日もご精読ありがとうございました。

☆続きはこちらです。
[ヴィパッサナー随想 #6 -- 心の底から湧き上がる気づき]

[なお、ゴエンカ氏方式のヴィパッサナーについては、次の本がありますので、よろしかったらどうぞ]
ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」(春秋社1999)

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