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幸せってなんだっけ・社会神経系と瞑想の話 -- 人生は哲学するには長すぎる 05

その昔、明石家さんまさんが「幸せーってなんだっけ、なんだっけ」と歌うコマーシャルがありました。 人間誰もが、幸せを求めて生きています。 けれど、人生の意味や目的が人それぞれである以上、幸せの形もひとそれぞれに違いありません。 一方で、幸せを感じるということについて、科学的な立場からその定義をし、心理学的、生理学的、あるいは脳神経科学的な考察をすることが可能なほどにまで、現在の科学は人間の心についての理解を深めつつあります。 というわけで、「カジュアルな哲学」の立場から「人はなぜ生きるのか」を論じるこのシリーズの最終回は、「人は幸せのために生きる」という前提のもと、「幸せとは何か」、「どうすれば幸せが得られるのか」を科学的に考えていきたいと思います。 ところで前回は、「正しい生き方はあるのか」ということを考えました。そして世界即神、あるいは仏教的な立場から、「考えないこと・言葉を使わないことの正しさ」を説明しました。 考えること、言葉を使うことをやめることで、自我の濁りが取れて、直感的に正しく生きられるようになる、という話です。 この話と重ねて幸せの定義を考えると、「幸せとは、考えること・言葉を使うことを必要としない状態である」ということが言えます。 たとえばあなたが、おいしい食べ物を食べて「幸せだなぁ」と感じているとします。 そのとき、ただそれを感じているだけで幸せですよね。 このとき、わざわざ言葉を使って「どうして幸せなのか」ということについて考えて、「自分は今おいしいものを食べているから幸せなのだ」とか、「この幸せはこれを食べ終わったら終わってしまう」とか考えていたら、せっかくの幸せな気分を味わうことなどできなくなってしまういますもんねぇ。 ここで「考えること・言葉を使うことを必要としない」という部分を、神経科学的な言葉で言い換えると、「幸せとは、社会神経系が働いている状態で、しかも『今この瞬間』を味わっている状態である」ということになります。 (「今この瞬間」を味わっているとき、言葉はいりません) さて、この社会神経系という用語はスティーブン・ポージェスという行動神経科学の研究者が提唱するポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)の言葉です。 ポージェスの説では、社会神経系が働いているとき、わたしたちはリラックスし

人生は無意味、ゆえにぼくらは自由 -- 人生は哲学するには長すぎる 04

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[写真はペナン島ジョージタウンの中国寺] 「人生は無意味である」という言い方は、いささか厭世的にすぎるかもしれません。 けれど、もともと「無意味」であるがゆえに、ぼくらは自由に「人生の意味」を自分で作り出すことができるのだとも言えます。 生きている人の数だけ、人生の意味はあります。 愛情、家族、財産、名誉。 人生の目的をどこに置くかは、まったくあなたが自由に決めればいいことなのです。 そうはいっても、ある種の「真実」としての「正しい生き方」というのはないものか。 この疑問についても、誰もが納得する「正しい生き方」というものはありません。 とはいえ、アドヴァイタ的に世界が神そのものであると考え、そこでどのように生きるべきかということを科学的な立場から検討するとき、一定程度は普遍化できる「正しい」立場というものは考えられます。 ここで一つ考えておく必要があるのは、「悪」とは何か、という問題です。 世界が神そのものであるとすると、ぼくらが普通「悪」と考えるものも、神の顕れにほかならないことになります。 ぼくらが「悪」とか「善」とか呼ぶものは所詮人間が便宜的にそう分けたものにすぎないのであって、絶対的な区別はないということです。 つまり、アドヴァイタの見方では、人が「悪」と見なすことにも、人には計り知れない意味があるのであって、それは、神の意志にしたがって起こってくることだというわけです。 ですから、それについて、人間があれこれ考える必要は、本当はまったくなくて、ただ「自我」を浄めて、すべてを神にゆだねればいいのだということになります。 こうした考え方は、一見、道徳や倫理といった考えと矛盾するように思えます。 人は善悪を考えずに行動していいというのか、ということです。 けれどこれは、善悪を無視して行動すればよい、と言っているわけではありません。 普通に「善悪を考える」というとき、その「考え」自体が「自我」によって濁っているので、「理性的」に考えた結果が却って誤った結果を生み出す、ということを言っているのです。 「自我」の濁りが消えてなくなれば、「真の自己」は自然に「善」をなす、というわけです。 座禅においても、頭の中のお喋りをやめて、無念無想になるこ

人生は哲学するには長すぎる 03 「宝石泥棒」が導く遥かなるインドへの道

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[写真はマレーシア・ペナン島の中国寺の巨大線香] 全国推定百万人の「楽して生きたい」だけのみなさんに、愛を込めてお送りする今回の記事、「ポップでカジュアルな、行動派のための哲学入門」も三回目となってようやく佳境に入ってまいりました。 初回 では、重々しい「フォーマルな哲学」に対して、「人生に対する考え方」くらいの「カジュアルな哲学」という立場を提示し、 第二回 では、ぼく自身の「カジュアルな哲学」の立場としてアドヴァイタの考え方を説明しました。この世界のすべてが神の顕れである、とするインドのヒンドゥー教に由来する考え方です。 ここでまず話をタイトルに戻して、「人生は哲学するには長すぎる」とぼくが思う理由を書いておきましょう。 この話題の発端はといえば、友人ネギ氏の「一介の庶民にとっては、人生は哲学するには短すぎる」という主張にありました。http://ad2217.hatenablog.com/entries/2016/06/13 ネギ氏のもう一つの記事に大変おもしろく述べられている通り、「フォーマルな哲学」というものは、たいそう時間もかかり、とても根気のいる作業です。 そういう世界が好きで仕事にしてしまったり、仕事にはしないまでも趣味としてこつこつと思考を積み重ねていくといった少数のかた以外には、あまり縁のない世界でしょうし、日々平穏に生きている大多数の人々にとっては、「世界」「存在」「認識」などといった問題について考えることは、お年頃を過ぎてしまえば、まったくといっていいくらい、ありえないことなのでしょう。 http://ad2217.hatenablog.com/entry/2015/12/15/191847 ところで、ぼくのような万年中二病の人間の場合、「生」や「死」、「戦争」と「平和」や「核エネルギー」について、熱心に日夜考えるわけではないですけれど、日々の暮らしの中で、ネット上のあれやこれやを見るにつけ、そういった話題も頭をかすめながら、「あー、なぜ人は生きねばならないのでしょうか」とかなんとか、冗談交じりに真剣に考えているわけです。 そういう不真面目かつ気まぐれ、おまけに飽きっぽい性格のわたしにとっては、「フォーマルな哲学」一本でやっていくというのは、ちょっと無理。そんなに長い間、形式張ったことばかりやっていけな

人生は哲学するには長すぎる 02 厨ニ病患者のインド万歳

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前回、「哲学」という日 本語には重々しい響きがあるけれど、英語でいうフィロソフィ philosophy の場合は、「人生に対する考え方」程度の軽やかな意味合いがあるということを書きましたが、これをここでは「カジュアルな哲学」と呼ぶことにしましょう。 また、ここでの「カジュアルな哲学」の対象としては、「まったくこの世界ってのはどうなってるんだ」とか、「なんでわざわざ生きなきゃならんのよ」とか、「おれはもっと楽して生きたいだけなんだよ」とかいった、中二病的な悩みやぼやきを想定することにします。 この「カジュアルな哲学」について言えば、ぼくの大好きな分野といってもいいくらいです。 とはいえ、このくらい範囲を限定しても、問題に対しては様々なアプローチの仕方がありますから、前提とする考え方およびその方法論についても述べる必要があります。 前提とする考え方は、インドのヒンズー教にもとづくアドヴァイタ(日本語では不二一元論といいます)で、方法論は科学的なものです。 アドヴァイタの考え方は、この世界全体が神の顕れであり、自我のために曇った人間の認識が洗われて、真の自己が意識されるとき、世界=神と、自己が同一のものであるという悟りに達するというものです。(この悟りの境地を「梵我一如」といいます) 哲学というよりは宗教の話に思われるかもしれませんが、もともと神学は哲学の一部だったわけですし、西洋でも17世紀のオランダの哲学者スピノザの考えはアドヴァイタと極めて近いものです。 ( 『スピノザ ―「神即自然」の汎神論』 などご参照ください。なお、かのアインシュタインは「自分はスピノザのいう神なら信じる」という言葉を残しています) アドヴァイタや梵我一如は馴染みのない言葉かもしれませんが、仏教の考えもこれにかなり近いものです。 仏教の言葉では「全ては苦で、万物は無常であり、この世に自分と呼べるものは存在しない(無我)、このことを正しく知るときその人は涅槃の境地に至る」ということになります。このとき、涅槃とは、自我が消え、法(ダルマ)という根本原理そのものを生きる境地と言えましょうから、法と神、無我と真の自己を同一視すれば、梵我一如を別の言葉でいったものと解釈することもできます。 さて、この世界に不満タラタラで、楽して生きたいだけの「不健全」きわまりない

人生は哲学するには長すぎる 01 ぼくは万年厨ニ病

「哲学」という言葉には、ずいぶん大それた響きがありますが、英語のフィロソフィ philosophy という言葉の場合は、「人生に対する考え方」程度の軽い使い方をするのだという話を、遠い昔なにかで読んで、「へー、そうなんだ」と感心した覚えがあります。 試しに手元の辞書で引いてみると、"a set of ideas about how to do something or how to live" という記述があり、これの意味するところは「何かをなす、あるいは人生を生きるにあたって、どのような方法を取るかについてのひとまとまりの考え方」といったことですから、日本語の「哲学」よりはだいぶ軽やかな感じがします。 (なお手元の辞書というのは Merriam-Webster Dictionary の android 版 で、いわゆる英英辞典というやつですが、ネット上のほかの辞書よりやや収録語句が少ないきらいはありますが、無料で、しかもオフラインで使えるので重宝しています。iphone 版もあるようです) さて、友だちのネギさんが 「人生は哲学するには短すぎる」 という記事を書いていて、その中で、哲学というものは「職業哲学者ならともかく、一介の庶民が手を出すには時間がかかり過ぎる」と述べた上で「一介の庶民は何十年も先に訪れる死などというものに悩み苦しんで人生を無駄に過ごす暇はないのである」とおっしゃっているのは、けだし名言と言えましょう。 ただし、これはネギさんのような健全な精神の庶民にのみ当てはまる言葉なのでありまして、ぼくのような「不健全」な人生を送る人間においては事情はやや異なってきます。 ぼくの場合、「この世界ってのは、一体どういうシロモノなのか」とか、「どうして俺はこんな世界で、ごちゃごちゃごちゃごちゃ苦しみながら生きなきゃならんのだ」とか、「もっと楽に生きる方法があればなぁー」とか、そういう「哲学」未満のうたかたの考えの切れ端が、ことあるごとに浮かんでくるわけです。 これは直接的には、ネギさんのいう「死に悩む」ということに該当しませんが、「死とは何か」の裏返しとしての「生とは何か」に悩み続けているわけですから、実質的に同じことと言えましょう。 ところで、こうした「哲学」未満の悩みというものは、一定程度の若者にとって、ある時