神奈川・相模原「障害者」殺傷事件の「真犯人」は誰なのか? あるいは、差別のない社会を創るための第一歩

この記事では、相模原「障害」者45名殺傷事件に関連して、その解決の道筋として、私たちの一人ひとりが「ヴァーチャルな隣近所」を作ることを提案します。

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2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者施設で45人が殺傷されるという事件が起こりました。

死亡した19名の方々はすべて施設に入所されていた「障害」をお持ちの方で、他の負傷者26名のうち、20名の方が重傷を負うという事件でした。

お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに、ご親族、関係者の方々にはお悔やみを申し上げます。また、心身ともに傷ついた皆さまの、一日も早いご快復をお祈りするものです。

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「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。

今回の事件は大変「残虐」なものであり、その「犯人」を恐ろしいと思い、「犯人」憎しと思う、そして厳しい処罰を求める気持ちは理解できるものです。

けれども、一番大切なことは、今後このような事件が起こらないですむようにするためには、どうしたらよいか、ということではないでしょうか。

そのためには、容疑者の方が、なぜこの事件を起こさざるを得なかったのかを考えることが必要です。

一体なぜ、こんな悲惨な事件を起こさざるを得なかったか。

それは「恐れ」のためではないでしょうか。

この「恐れ」という気持ちの中には、「障害」者に対する恐れ、生活に対する不安、うまくいかない生活に対する不満など、いろいろな感情がごちゃまぜになって詰まっていたと思われます。

そして、今回のような事件を起こす「真犯人」は、ぼくたち一人ひとりの中に潜む「恐れ」の気持ちではないかと思うのです。

なぜなら、個人の気持ちには、社会の空気が反映され、社会の空気は個人の気持ちがつくり上げるものだからです。

単純に、犯人が悪いのだ、というような考え方をするのではなく、こうした見方で事件をとらえ、自分自身に関わる問題として考える。そのような道筋を取っていかないと、類似事件の発生を防ぐことはできないと思うのです。

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今回の事件の容疑者の方は、衆院議長に宛てた手紙の中で「重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界」が目標であると述べています。

大変危険で差別的な考えですが、これは彼一人の問題ではありません。

元東京都知事の石原慎太郎氏は、1999年9月に府中療育センターという重症心身障害児者の入所施設を訪れ、次のような発言をしたと伝えられています。
「ああいう人ってのは人格あるのかね」「 ショックを受けた 」「 僕は結論を出していない 」「 みなさんどう思うかなと思って 」 「 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、 人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって…。 しかし、こういうことやっているのは日本だけでしょうな 」「 人から見たらすばらしいという人もいるし、 恐らく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。 そこは宗教観の違いだと思う 」「 ああいう問題って 安楽死 なんかにつながるんじゃないか という気がする 」(「 安楽死 」の意味を問われた知事は)「 そういうことにつなげて考える人も いるだろうということ 」「 安楽死 させろといっているんじゃない 」 (と否定した。)「 自分の文学の問題にふれてくる。非常に大きな問題を抱えて帰ってきた 」[朝日新聞1999.09.18 ただし孫引き]
このように、石原氏は、「自分の見解を述べることなく、西洋の価値観を鵜呑みにした上で、安楽死を示唆したと批判されても仕方がない発言をした」と報道されました。

これに対して、都議会で「ああいう人たちに人格はあるのか」という発言を問いただされて、石原氏はこう言います。
府中療育センターの視察の感想を述べた私の発言についてでありますが、私の発言の真意は、行政の長というよりも一人の人間として、みずからも思い悩むことを感じさせられ、そのことを自分自身にも、及び記者の皆さんにも問いかけたものであります。 ある新聞が、現場にも同行せずに、この発言を意識的に曲解し、あたかも私が障害を持つ方々の人格を傷つけた──多くの読者に印象づけたことは、報道の正確性にもとり、許せぬ行為でもあります。これは卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なことだと思います。
石原氏のおっしゃる通り、報道側の姿勢にも大きな問題があります。

けれど、「人格はあるのか」という問いかけ自体が
「障害を持つ方々とその関係者の人格を深く傷つけるものであり、行政の長として重大な発言です。発言を撤回し陳謝すべき」
という質問を受けているにも関わらず、石原氏はそれについては何も答えていません。

謝罪の言葉がありません。

彼の発言の全体像が、「障害者には安楽死の道を」という危険な思想を、無意識のレベルで社会に植えつけるものであると考えることは、決して深読みのしすぎではないと考えます。。

この石原氏の発言は、一つの象徴的な例にすぎませんが、こうした考え方が社会の空気の中に拡がっているからこそ、今回の事件が起きたのではないでしょうか。

  *  *  *

ぼくは以前、東京都江戸川区の身体障害者の作業所で働いていたことがあります。そのとき、都立の養護学校で行事があり、餅つきのお手伝いで行ったことがあります。
(なお、現在は「養護学校」から「特別支援学校」に名前が変わっています)

そのとき、重度の心身「障害」を抱えるある一人の方を見て、「おそろしさ」を感じたことを、正直に書かせていただきます。
(だから、石原氏が「ショックを受けた」という言葉には体験としての重みを感じるのです)

ぼくの働いていた作業所は、決して「障害」が軽い方ばかりというわけではなかったのですが、その養護学校で出会った方は、ぼくの知っていた方々とはタイプの違う重度の「障害」をお持ちの方でした。

そして、ぼくは彼の外見に何とも「異質」なものを感じ、ぼくの体の中に「恐怖」の感情が生まれたように思います。

その方と知り合いになって、日常的に触れ合うことになれば、そうした「恐怖」は根拠のないものだということに、だんだんと納得していくことができたでしょう。

けれども、そういう機会は誰にでもあるものではありません。

そして、そうした「恐怖」というものは、人間の心の奥底に潜む「原初的」な情動であり、「理性」では抑えがたいものであることを、ぼくたちはよくよく知る必要があります。

事件の容疑者の方は、自分の中のそうした「おそれ」や「不安」、そして自分自身が社会にうまく適応できないことからくる「怒り」や、さらには「憎しみ」の感情をもてあまし、それを、なんとか解消しようとして、社会的な「弱者」に向けることになってしまい、その結果として「大爆発」をしてしまったように思えます。

「障害」という「烙印」の問題、「障害」者に対する差別意識の問題は、一筋縄ではいかない、解くことの大変むずかしい問題だと思います。

この問題は、考えるだけ、論評するだけでは決して解くことはできません。

「障害」を持つ人が回りにいることが日常的なものとなり、そこから自分の経験を持って、そうした人とのつき合いを考えていくことが必要と思われます。

そのとき、「障害」を持つ人が住む場を、自分の「ヴァーチャルな隣近所」にすることで、そうした人とつき合ってみることを提案します。ここでヴァーチャルというのは、実際の隣近所ではなく、あなたの行動範囲の中での隣近所ということです。

あなたのお住まいの市町村には必ず「障害」児者のため学校や施設があるはずです。それは実際の隣近所にはないかもしれませんが、あなたがそこに出向き、あなたの側から積極的にコミュニケーションを取ることで、あなたにとっての「ヴァーチャルな隣近所」の一部とすることができます。

「障害」児者のため学校や施設で、バザーやお祭りなどの催し物をしていることがあるはずです。あるいはボランティアを募集していることがあるはずです。

どうか機会を見つけて、「障害」を持つ人と知り合いになり、友だちになってみてください。

そして、そのとき、可哀想だからつき合って上げる、とは思わないでください。

「障害」を持つ人を一人の人間として見て、この人とは合いそうだなと思ったら、友だちになればいいのです。

そうやって思い切って行動するとき、あなたの人生に新しい扉が開きます。

新しい人と出会い、新しい体験をすることで、あなたの人生が豊かなものになります。

あなたの人生が豊かなものになれば、周りの人の人生も豊かなものになり、社会全体も豊かなものになります。

そうやって社会が心豊かなものになっていくとき、差別のない、戦争のない、平和で幸せな社会へと、一歩ずつ近づいていくことになるのではないでしょうか。

そうです、平和で幸せな社会を作るための第一歩は、あなたが思い切って行動するという、小さな勇気から始まるのです。

あなたが勇気を持って「ヴァーチャルな隣近所」作り出す一歩を踏み出してくださることを、心より願います。

長い文章を最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。

なお、「ヴァーチャルな隣近所」という言葉は、[「愛と正義は障害者を救わない」伝説の運動と相模原事件]という記事から得た着想です。

また同記事で紹介されている荒井裕樹氏の『差別されてる自覚はあるか - 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』という本は、日本における「障害」者の問題を考える上で必読の書ではないかと思います。

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[2016.12.31 追記]
この事件に関して、次のような意見を twitter で、いただきました。
知り合えば差別がなくなるというものではないと思います。
むしろ差別をする気がない人が、現実の障害者の「醜さ」に直面して考えを変えていくことすらあるのではないかと。
確かに、今回の容疑者の方について報道されていることを考えると、「障害者」と知り合って、却って「障害者」を嫌う人が出てくる可能性はあります。

その点を考えると、ただ知り合って、友だちになればいい、と言うだけでは問題解決にはつながらないのだと、改めて考えました。

「障害」のあるなしとは関係なく、人間には誰でも、よい面もあれば、わるい面もあります。

そうした当たり前のことをしっかりと受け止めた上で、「障害」のあるなしに関わらず、人間関係を作り、普通につき合うという態度が必要なのでしょう。

「障害」のある人だからといって、可哀想だと思ったり、優しくしなければ、と考えるのでなく、あくまでも対等な人間として、相性があえば、友だちとしてつき合えばいいし、そうでなければ、別に無理につき合う必要はないわけです。

「障害」の問題だけでなく、民族や国籍、宗教や政治的立場の違いによっていがみ合うことなく、普通につき合い、あるいは、適度に距離を取るようなことが、当たり前の社会になることを祈るものです。

(この追記にともない、一部加筆訂正しました)

[2017.03.27 追記]
「ヴァーチャルな隣近所」に関して加筆し、その他一部に修正を加えました。

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✧以下は、三宅洋平氏と安倍昭恵氏に関する記事です✧

[三宅洋平氏の内海聡医師擁護発言に神奈川・相模原「障害者」殺傷事件が波及]

[洋平と昭恵をつないだ「怪人」てんつくマンとは!?]

[大丈夫か、三宅洋平!? 安倍昭恵氏と会食なんかしちゃって。]

[洋平氏と昭恵氏の会食・再考、その意味を最高のものにするために]

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☆こちらもどうぞ。

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