きみは「シン・ゴジラ」に日本の未来を見たか[ネタばれ御免]

[この記事のまとめ]
・東浩紀氏、杉田俊介氏、はてな匿名ダイアリーの[大絶賛の謎]氏の三つの感想を紹介。
・「シン・ゴジラ」は夢物語などではなく、戯画的かつリアルに「日本の現在」を描いた問題作である。
・我々日本人は「現在進行形」の福島第一の問題と「決死の思い」で取り組まざるをえない。
・同時に、弱者に自己犠牲を強いる全体主義的な状況には十分注意する必要がある。
・西洋的な「個」を超えた、「集合意識の力」こそが我々に与えられた武器である。

  *  *  *

みなさん、「シン・ゴジラ」もう見ましたか。

脚本・総監督が「エヴァンゲリオン」の庵野秀明氏、
監督は「平成ガメラ」の特技監督・樋口真嗣氏ということで、
元SFファンのぼくとしても、たいへん気になる作品です。

予算が15億円とかなり少なめなところにも、期待感が盛り上がります。

学生時代にアマチュアとして「帰ってきたウルトラマン」や「愛国戦隊大日本」を実写で撮った庵野氏が総監督、「進撃の巨人」の樋口氏が特撮ですもんねー。

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第一作めの「ゴジラ」では、ゴジラは水爆実験が生んだ怪獣とされ、核兵器や戦争の象徴でした。

今回の「シン・ゴジラ」は、東日本大震災によりメルトダウンを起こし、今日も放射性物質を吐き出し続ける福島第一発電所の象徴として、ゴジラを現代に甦らせました。

評論家の東浩紀氏は、「ゴジラが覚醒するクライマックスの1分ほどがおそろしく美しい映像だから」観た直後には絶賛したくなったけど、一日経つとそれほどでもないか、単純な物語だし、と書いています

批評家の杉田俊介氏は、「シン・ゴジラ」に政権批判の意図を見、「なぜエリートや霞ヶ関や自衛隊ばかりに夢を託すのか。民衆や東北や犠牲者の目線がなぜ薄いか」といささか勘違い気味の感想を書いています。

はてな匿名ダイアリーの『「シン・ゴジラ」大絶賛の謎(ネタバレ)』という記事を書かれた方(以下、[大絶賛の謎]氏)は、
『国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「 有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観』や「半ば特攻精神的」な表現に違和感を表明しています。

また、プロットから見ても物語に十分なカタルシスがないことを、娯楽性の欠如という点から批判的に指摘しています。

もちろん、オタクの方々は様々な形で大絶賛されています。

そうした様々な意見の中には、『これは「フィクション」なのだから「現実のイデオロギー」とごっちゃにするのはおかしい』と主張する方もおられます。

しかし、作品というものは、一旦産み落とされた以上は、作者の手も離れて、全ては読み手に任されるというのが実情です。

というわけで、以上お三方の紹介と感想を読んだところで、「2016年、たった今の日本を描いた作品」として、「シン・ゴジラ」を読むことにしましょう。

(もちろん、これはわたくし一個人の勝手な読みであって、製作者諸氏の意図するところとは関係のない話ですので、念のため)

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東浩紀氏は次のように述べています。
シン・ゴジラは、ひとことで言えば、細野豪志(に相当する人物)が職人集団を率いて外国に頼らず原子炉を無事冷温停止させる話で、「おれら本当は311でもこうできたはず」という願いが詰まった作品でした。だから受けるひとには受けるのではないかと思います。
脚本はけっこうバランスがとれていたと思います。平成ガメラのような自衛隊絶賛映画ではなく、官邸の愚かさも描かれている。最後も冷温停止したゴジラとの苦渋の共存を強調していて、ちゃんと現実に対応している。冷温停止法の滑稽さは逆に廃炉作業の滑稽さをえぐり出しているとも言える。 
しかし、やはりそのぶん(普通に観れば)カタルシスがないし、物語も薄い。そもそもみな指摘するように人間ドラマはゼロ。だから一日経つと、「どんな話だったっけ?」ってなっちゃうんですよね。とはいえそこまで一作品にあらゆる要素を期待するものでもないので、そのかぎりでいいのではないかと。

たった三ツィートできれいにバランスよく紹介しています。さすがですね。

そしてこのあと、他のツイッターユーザとのいくつものやりとりをしたあとで彼は、シン・ゴジラは『「しょせんは」特撮でありアニメであり、人間ドラマもないし政治的メッセージもない』と書きます。

しかし、それは読み方によるでしょう。

というのも、シン・ゴジラは『「おれら本当は311でもこうできたはず」という願いが詰まった作品』などではなく、現在の日本人が直面している問題と、それに対してどう向き合っていくことが可能なのかを描く作品だからです。

現実の福島第一発電所は、日々環境中に放射性物質を放出しているわけであり、映画では描かれない「冷温停止後のゴジラとの共存」という状況にどう向き合っていくか、ということこそがシン・ゴジラの真のテーマだと考えられます。

現在の日本の政治的逼塞状況や、個人的ヒーローによるものではない集団による問題解決を描くためには、人間ドラマを描く時間がないという以上に、人間ドラマはそもそも必要もなければ対象にもならないと言えます。

「政治的メッセージ」かつ「哲学的なメッセージ」もここにはあります。

「冷温停止後のゴジラ」がそこに存在するにもかかわらず、なぜ我々は東京を首都とし続け、なぜ東京から疎開することもせずに、そこで生き続けるのかという問題提起です。

表面的には単純な物語かもしれませんし、カタルシスも十分ではないかもしれません。

けれども、それは戯画化を追求し、歪みの上に歪みを重ねた上で、あくまでもリアルさにこだわったための結果なのであって、製作者からすれば想定内の批評にすぎないものと思われます。

  *  *  *

杉田俊介氏の「なぜエリートや霞ヶ関や自衛隊ばかりに夢を託すのか。民衆や東北や犠牲者の目線がなぜ薄いか」という言葉も見当違いのものに思えます。

「エリートや霞ヶ関や自衛隊」に「夢を託して」などいないのです。
ただ現実を描いているだけなのです。

「民衆や東北や犠牲者の目線」は薄いかもしれません。
しかし、それはこの作品のテーマではないのです。

ただし、杉田氏の
「『シン・ゴジラ』は、ニュータイプの国策映画の時代のはじまりを告げる記念碑的な作品じゃないか」
という言葉には、一つの真理を見ます。

シン・ゴジラ自体は「国策」映画ではありえませんが(無論これを「国策」映画とする解釈を否定するものではありません)、これを真似た「国策」映画が出てくる恐れは十分あるからです。

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[大絶賛の謎]氏が書かれている
『国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「 有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観』や「半ば特攻精神的」な表現への違和感
は、「国策」映画という言葉とも重なる重要な問題点です。

しかし、こうした描写も「現実の日本」を「あるがまま」に書いているだけに思えます。

「戦争賛美」も「自己犠牲の強制」もリアリズムの描写なのであって、シン・ゴジラという作品がその価値観を摺りこもうとしているのではなく、最初からそうした価値観を持った人はそれを喜び、最初からそれに反対の人は違和感を感じる、そういうことなのだと思います。

同時に、この「自己犠牲」というテーマは、3.11後を生きる我々が、放射性物質の影響を避けては通れぬことも暗示しているのではないでしょうか。

つまり、我々は日本にとどまる以上、自分の健康を犠牲にし、「決死の思い」で、これからの日々を生きていかなければならないのです。

しかもそのとき、大本営発表にも似た日本のメディアの情報を鵜呑みにしたのでは、「自己犠牲の強制」をする側、される側の間で分断させられ、対立することになり、どうにも苦しい人生を送ることにならざるをえません。

また、その苦しさのはけ口が「戦争賛美」に向かうときには、さらなる災厄が日本を襲うことにもなるでしょう。

....と、だいぶ大風呂敷を広げてしまいましたが、シン・ゴジラという作品は、そのくらい魅力的で想像力を働かせてくれる、という話なのです。

 

  *  *  *

さて、杉田氏はこのようにも言っています。
『シン・ゴジラ』が夢物語を排したリアル路線、というのは意味わからん。もし若くて優秀なリーダー(総理候補)さえいれば、優秀な人材の宝庫日本は本来の性能を発揮して原発も冷温停止できる、という「ありえたかもしれない震災後の日本人」「平行世界としてのまともな日本」を描いているのに、なぜ?

東氏の「おれら本当は311でもこうできたはず」という言葉に対しても書きましたが、シン・ゴジラは、「もし、こうだったら」という「仮定の世界」の物語ではなく、「ゴジラの冷温停止」によって「事態が解決していない福島第一事故の現状」を象徴的に提示することにより「現実の日本」を描く作品です。

描かれているのは「ありえたかもしれない平行世界」ではありません。
「冷温停止したゴジラ」と共存していかなければならない我々の現状が、リアルに描かれているのです。

そして、日本の「優秀」な人材を持ってしても解決できなかった「福島第一の事故」を、これから我々が解決していくにはどうしたらよいかをフィクションの形で提示しているのです。

シン・ゴジラではオタクの集団が「冷温停止」を成し遂げるわけですが、そのあり方こそが、「冷温停止後のゴジラ」との共存のために、我々が取りうる解決法の一つとして象徴的に示されているわけです。

ここで再び、[大絶賛の謎]氏の言葉を引きます。
情報や知識の独占の否定。 矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策 である、という姿勢だ。
<超越的> 存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」

このような主張は空想的にすぎる、と「現実的」な方々はおっしゃるかもしれませんが、ウィキリークスやパナマ文書が世界を騒がせ、iPhone のハックに130万ドルが支払われる時代を我々は生きているのです。

それは同時に、GNUから始まり、LINUXによって社会的な価値として揺るがぬものとなった、オタクによる共同作業の時代でもあります。

こうした現実を背景にして、ネットワーク時代のサイエンス・フィクションとしてのシン・ゴジラが、西洋的な「個」を超えた「集合意識」の可能性を描くとき、それをただ荒唐無稽なものとして済ませることは、もはやできないものと考えます。

エヴァンゲリオンで実存主義をテーマとし、R.D.レインの著書から英文サブタイトルの "Do you love me?" を取った庵野氏が、ここで、西洋と東洋の統合的価値観の一つと考えられるトランスパーソナル心理学的な思想を提示したのだ考えても、それほど的はずれなことではないでしょう。

我々が向き合う現実の日本が、そして我々人類が、「集合知」による解決に向かうのか、それとも「集合愚」による破滅へとひた走るのか、それは予断を許しません。

しかし、暗雲垂れ込める未来へ向けて、「集合意識」の可能性を仄めかす、シン・ゴジラのメッセージが、そのディテールの描写と共に、オタクな人々によって熱狂的に受け入れられるのは至って当然のことに思えます。

  *  *  *

シン・ゴジラという作品の全体像を論じるためには、エヴァンゲリオンについても述べる必要がありますし、庵野氏と岡本喜八監督との関係についても論じなければなりません。

それはこの記事の範囲を越えますので、また別の機会に譲りたいと思います。

シン・ゴジラという問題作を制作してくれた、庵野氏、樋口氏を始めとするスタッフの方々、そしてキャストの皆さんの集合知を讃えて、今はタブレットを置くことにします。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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