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2016年10月10日月曜日

02 フロリンダ・ドナー「シャボノ」-- アマゾンの奥地、ヤノマミ族の暮らし


02 フロリンダ・ドナー「シャボノ」那賀乃とし兵衛訳
Frolinda Donner "Shabono" 1982 a Laurel Book
[今回は四百字詰め原稿用紙40枚ほどの分量です]

[この試訳は編集中のものですが、ネット上で公開することにより、多くの方からのご意見をいただけたらと考え、こちらに置くことにします。それでは、お楽しみください]

☆第一回はこちらです。
[01 フロリンダ・ドナー「シャボノ」]

☆この作品の簡単な紹介はこちらにあります。
[本の紹介: フロリンダ・ドナー「シャボノ」]

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第一部 (承前)

**010**


 一週間後、私は友だちの操縦する小さな飛行機で、オリノコ川上流にあるカトリック布教所の一つへと向かっていた。私たちはそこで一行の他のメンバーと落ち合うことになっていた。彼らは数日前にボートで出発し、そのボートには狩猟道具とともに二週間のジャングル行きに必要な食料などが積み込まれていた。
 友だちは熱心に、泥々と渦巻くオリノコ川の魅力を私に見せようとした。彼は勇敢かつ巧みに小さな機体を操った。ある瞬間には私たちは水面すれすれを飛び、砂地の岸で日向ぼっこをする何匹かのワニを驚かしてしまうほどだった。かと思うと次の瞬間には上空に飛び上がり、果てしなく、通り抜けることを拒むかに見える壮大な森林を見下ろすことになるのだった。息つく暇もなく、彼はまた急降下をする。川の端に浮かぶ丸太の上で、日差しを楽しむ亀が見えるほどの低さだった。
 布教所の菜園のそばにある小さな空き地にようやく着陸したときには、私はめまいと吐き気で震えていた。布教所を守るコリオラーノ神父、前の日に到着していた他のメンバー、そして先住民族の一団が、私たちを歓迎してくれた。先住民族たちは興奮して機内に飛び込んでくるほどだった。
 コリオラーノ神父を先頭に私たちは、トウモロコシ、マニオク、プランテン、サトウキビが植えられた畑の間を歩いた。**011**神父は痩せた体に長い腕と短い足の持ち主だった。濃い眉は深くくぼんだ目を隠すほどで、もじゃもじゃのあごひげで顔の大部分が覆われている。黒い法衣とはちぐはぐなくたびれた麦わら帽をかぶっており、汗が流れる額に風を当てるため、しきりにその帽子を押し上げていた。
 川岸の泥の中に埋められた何本かの柱が、間に合わせの桟橋になっており、そこにボートがつながれていた。その脇を通る頃には、服は汗でぐっしょりとなり、体にまとわりついた。私たちは立ち止まり、コリオラーノ神父は私たちの翌日の出発について話し始めた。私は先住民族の女性の一群に囲まれた。彼女たちは無言のままで、恥ずかしそうに私に向かって微笑むばかりだった。女たちの、体に合わない服が前に上がり、後ろに下がるのを見ていると、みなが妊娠中であるかのような印象を受けた。その中の一人の老婆は、あまりにも小さくしわくちゃなので、歳を取った子どものように見えた。彼女は他の女たちと違い微笑んでいなかった。 老婆はその目に何かを請うような表情を浮かべながら、押し黙ったまま私の方へ手を差し出した。彼女の目に涙が浮かんでくるのを見ていると、私は奇妙な思いにとらわれた。粘土のような色をしたその頬を、涙が流れ落ちるのを見たくないと思ったのだ。私は老婆の手に自分の手を重ねた。平屋で細長い形をした布教所の建物を囲む果樹の方へと、彼女は嬉しそうに微笑みながら私を導いた。
 布教所の建物のアスベストの屋根が大きく張り出した下、その影の中で、幾人かの老人が震える手にほうろうのカップを持ってしゃがみ込んでいた。老人たちはカーキ色のシャツを着ており、顔は汗のしみが付いた麦わら帽で半ば隠されていた。甲高い声で笑っては喋りながら、ラム酒をふり入れたコーヒーに舌鼓を打っていた。羽を切られた鮮やかな色の金剛インコのつがいが、一人の男の肩で騒がしかった。男たちの容貌にも肌の色にも特に目立ったものはなかった。スペイン語を話しているように思えたが、言葉は聞き取れなかった。
「この人たちは先住民族なのかしら?」私は老婆に聞いた。布教所を囲んで建つ家の一軒の裏手の部屋へと、彼女のあとをついて私は歩いていた。
**012** 老婆は笑った。細く開いた目ぶたの間に微かに見える瞳が、私の顔の上で視線を止めた。「彼らは〈理性の人〉(ラシオナーレス)だよ。先住民族でないものは〈理性の人〉と呼ばれるのさ」彼女はその言葉を繰り返して言った。「あの年寄りたちはここに長く居すぎたのさ、金やダイヤを探しに来てね」
「少しは見つけたの?」
「多くの者がね」
「それなのに、まだここに?」
「自分の土地には戻ることのできない者たちなのさ」彼女はそう言って、痩せこけた両手を私の肩に置いた。彼女がそうしても私は驚かなかった。彼女の触り方には優しさがあり、愛情が感じられた。ただこの人は少し頭がおかしいのだろうと私は思った。「あの男たちは森で魂を失くしてしまったのさ」老婆は目を見開いた。干したタバコの葉の色をした瞳だった。
 何と言っていいのか分からないままに、彼女の突き刺すような視線から目をそらすと、私は部屋の中を見回した。壁は青く塗られていたが、日差しに色あせ、湿気で剥がれかけていた。小さな窓の横には、粗雑に作られた木製のベッドが置かれている。それは大きすぎるベビーベッドのようで、全体を囲むように蚊除けの網が張られていた。見れば見るほどそれは檻を思わせた。その檻には、蚊除けの網で覆われた天辺の重たい部分を外さない限り、入ることができないのだ。
「私はアンゲリカ」老婆はそう言って私を見据えた。「これで全部なのかい、お前の荷物は?」私の背からオレンジ色のナップサックを取りながら彼女は聞いた。
 私は言葉を失い、驚きの表情を浮かべたままで、彼女が下着とジーンズ、長袖のTシャツをナップサックから取り出すのを見ていた。「二週間の旅に必要なのはこれだけなの」そう言って私は、ナップサックの底のカメラと洗面用具を指さした。
 注意深く彼女はカメラを取り出し、ビニールでできた洗面セットのジッパーを開けると、中身を全て床の上にぱっと広げた。くし、爪切り、歯みがきと歯ブラシ、シャンプーと石けんがそこに並んだ。**013**信じられないと言いたげに頭を振りながら、彼女はナップサックの裏表をひっくり返した。そして心ここあらずといった様子で、額に貼りつく黒い髪を撫でた。老婆の瞳に映る表情から、どうやら夢見がちに昔を思い出しているものと思われ、その顔にはしわくちゃな笑みが浮かんだ。ナップサックに全てのものを戻すと、彼女は物も言わず私を旅の一行のところまで連れ戻した。
 辺りが暗くなり、布教所が静まり返ってからも、私はずっと眠らずにいた。そして、開け放った窓から聞こえてくる耳慣れぬ夜の音に耳を澄ませた。疲れていたからか、それとも布教所の落ち着いた雰囲気のためかは分からなかったが、その夜、床につく前から友だちの狩りには同行しないことに決めていた。代わりに二週間、私は布教所に留まるつもりだった。幸い気にするものはいなかった。というより、実のところ誰もが安心した様子だった。口にする者こそいなかったが、銃の使い方も知らない人間が狩りに行くなどばかげていると考える者も、友だちの中にはいたのだ。
 透明な空の青さが夜の影を溶かしていくのを、私は呪文にかけられたかのように見守った。穏やかな空の明るさを背景に、窓の外、そよ風に揺れる木の枝と葉の輪郭がくっきりと浮かび上がった。ホエザルの叫びが一つ聞こえ、私は深い眠りに落ちていった。

「つまりあなたは人類学者なんですね」翌日昼食を一緒に食べながら、コリオラーノ神父が言った。「私が今までに会った人類学者と言えば、録音や録画の機材を持ち運んでいて、いろんな機械類に詳しい連中でしたよ」そう言いながら彼は、焼いた魚とトウモロコシのおかわりを私によそってくれた。「先住民族に興味がおありで?」
 バルロベントで自分が何をしていたのかを、データの取り扱いに関して経験した難しさのことも含めて、私は彼に説明した。「できればここでも治療の現場に立ち会いたいんです」
**014**「この辺りではなかなかご希望はかなわないように思いますがね」あごひげについたキャッサバ・パンの屑を取りながら、神父は言った。「ここにはよく整った診療所がありましてね。先住民族たちは遠くから病人を連れてくるんですよ。とはいえ、近くの居住地に行けるようお手伝いすることはできると思いますし、そうすればシャーマンにも会えるでしょうな」
「そうして頂けたら大変助かります」私は言った。「フィールドワークをしにきたわけじゃないんですけれど、シャーマンと会うことができれば、貴重な体験になりますから」
「あなたは人類学者らしく見えませんな」コリオラーノ神父の濃い眉が、アーチを描いて一つにつながった。「もちろん会ったことがある人類学者はほとんどが男ですよ、でも少しは女性もいた」彼は頭を掻いた。「けれどあなたの場合、わたしの知っている女性人類学者のタイプとも違う」
「人類学者がみんな似てるとは限りませんよ」彼が会ったことがあるのは誰なんだろうと考えながら、私は軽い調子で言った。
「それはそうですね」彼は戸惑い気味に言った。「でも、私が言いたいのは、あなたは十分大人には見えないってことなんですよ。今朝あなたのお仲間が出発したあとで何人もの人から聞かれましたよ、どうしてあの子どもは私のところに残っているのかって」
 先住民族たちが、自分たちの間に白人の大人が聳え立つのを見ることをいかに期待しているかについての冗談を話しながら、彼の目は活き活きと輝いた。
「ブロンドで青い目をしていたらなおさらです」彼は言った。「これこそまさに巨人だって先住民族は思うんです」
 その夜、蚊除けの網で覆われた檻のようなベッドの中で、とても恐ろしい夢を見た。夢の中、ベッドの天辺は釘づけされていた。天辺の蓋は重く、逃げ出そうとする全ての試みは失敗に終わった。私はパニックに襲われ、叫びながらベッドを揺さぶり続け、ついにその奇怪な檻は大きく揺れてひっくり返った。私は半分眠ったまま床に横たわり、老婆の垂れた乳房の小さなふくらみの上に頭を置いていた。しばらくの間、自分がどこにいるのか分らなかった。何も怖がることはないのだと分っていても、子どもじみた恐怖が抑えきれず、私は老婆にすがりついた。
**015** 目がはっきり覚めるまで、老婆は私の頭の天辺を撫でながら、理解できない言葉を耳元で囁いてくれた。彼女の手の感触と、耳慣れない鼻にかかった声の響きが、私の気持ちを落ち着けた。そのときの気持ちは、合理的に説明できるようなものではなかったが、とにかく私は彼女にしがみついていていればいいのだと思った。老婆はわたしを台所の裏にある自分の部屋に連れていった。二本の柱に結びつけられた重いハンモックの中、私は彼女の隣で横になった。まだ会ったばかりでよく知らない老婆が横にいるだけで私は安心し、恐怖心を忘れて、私は目を閉じた。彼女の鼓動のかすかな響きと、素焼きの壺から漏れ落ちる水滴の音を聞きながら私は眠りについた。
「ここで寝たほうがずっといいだろう」翌朝、自分のハンモックの隣に綿のハンモックを吊りながら老婆は言った。
 その日からアンゲリカは、ほとんど私につきっきりになった。私たちはたいてい川辺で時間を過ごし、話をしたり川に入って水浴びをしたりした。川辺の砂は灰に血を混ぜ合わせたような色をしていた。私はとてもくつろいだ気持ちで、先住民族の女たちが洗濯をするのを何時間も座って眺め、アンゲリカの昔語りに耳を傾けた。雲が大空を漂っていくように、彼女の言葉が、女たちが服をゆすぎ、石の上に広げて乾かす光景に、重なり、からまり合った。
 布教所にいる先住民属はほとんどがマキリタレ族だったが、アンゲリカは違った。まだ若いうちに彼女はマキリタレの男に預けられた。その男はよくしてくれたと、彼女は好んで言った。生まれた場所のやり方とそれほど違わなかったので、マキリタレの生活に慣れるのもすぐだった。彼女はまた街で暮らしたこともあったが、どこの街かは言わなかった。先住民族としての本名も、彼女は明かさなかった。簡単に本名を明かすべきではないというのが、彼女の部族の慣習だったからだ。
 昔語りをするときはいつも、彼女の声は私にとって耳慣れぬものになった。とても鼻にかかった声になり、しばしばスペイン語から自分の部族の言葉に切り替わり、時間と場所がごちゃまぜになった。**016**文章の途中で話を止めることも度々だった。数時間たってから、場合によっては翌日になってから、話を止めたまさにその場所から、彼女はまた話し始めるのだった。そのような話し方が一番自然なやり方だというかのようだった。
「お前をわしの仲間のところへ連れていくことにしよう」そう彼女が言ったのは、ある昼下がりのことだった。私を見つめる彼女の口元には、かすかな微笑みが浮かんでいた。彼女はもう少し何か言いたそうだったが、そのとき私が考えていたのは、コリオラーノ神父がバース氏に頼んで、私を近くにあるマキリタレの居住地に連れていくように話していることを、彼女は知っているのだろうかということだった。
 バース氏はアメリカ人の鉱山技師で、もう二十年以上もベネズエラのジャングルに住んでいた。彼は布教所の少し下流で先住民族の女性と暮らしていて、夕方にはよく布教所まで来て一緒に食事をした。彼は合州国に戻るつもりはなかったが、国の話題は喜んで聞いた。
「お前をわしの仲間のところへ連れていくよ」アンゲリカがもう一度言った。「そこまで行くのには何日もかかるんだ。ミラグロスがジャングルを案内してくれるさ」
「ミラグロスって誰?」
「わしと同じ先住民族さ。スペイン語も上手だよ」アンゲリカは喜びに手もみした。「ミラグロスはお前の仲間と一緒に狩りに行くはずだったんだが、やめてここに残ったんだ。今になってその訳が分ったよ」
 アンゲリカは瞳を輝かせ、奇妙な熱心さで話をした。私は最初に会ったときと同じように、彼女は少し頭がおかしいのだと思った。「ミラグロスには始めから分ってたんだ、わしらに案内が必要だってことがね」老婆はそう言うと、もう目ぶたを開けておく力が残っていないとでもいうかのように目ぶたを閉じた。眠りに落ちるのを恐れたかのように、彼女は突然両目を大きく見開いた。「お前が今何を言おうがわしは構わんよ。お前が一緒に行くのは分かってるんだ」
 その夜、私はハンモックのなか眠らずにいた。息の音からアンゲリカは眠っているのが分かった。ジャングルに連れていってくれるという約束を、彼女が忘れないようにと私は祈った。ドーニャ・メルセデスの言葉が頭の中をこだました。**017**「あんたが戻ってくる頃にはそんなノートは何の役にも立たなくなってるはずさ」たぶん先住民族のもとでいくらかのフィールドワークができるだろう。私は楽しい気持ちでそう考えた。テープレコーダは持ってきていなかったし、紙と鉛筆もなかった。小さな手帳とボールペンがあるだけだ。カメラは持っていたが、フイルムは三本しかなかった。
 落ち着かない気持ちで、私はハンモックのなか寝返りを打った。ちょっと気が変だとしか思えない老婆と、まだ会ったこともない先住民族の男と一緒にジャングルに入るなんて、そんなことできるわけがない。にも関わらず、ジャングルを通り抜けて旅をするという考えには、何ともいえない魅力があった。時間を取ることは私にとって簡単なことだった。締め切りがあるわけではないし、待たせている人がいるわけでももない。友だちには急な予定の変更について、書き置きを残して説明すればいいだけだ。考えれば考えるほど、私はその計画の魅力にのめり込んでいった。コリオラーノ神父が十分な紙と鉛筆を用意してくれることは間違いない。そう、多分ドーニャ・メルセデスが言った通りなのだ。そのような旅から戻ったときには、いや、もしそのような旅から戻ることができれば……。不吉な考えとともにわたしは言葉を選び直した。もしそのような旅から戻ることができれば、そのときには治療についての古いノートはもう必要なくなっているに違いない。
 私はハンモックから抜け出すと、眠っている老婆のか細い姿を見つめた。私が見ているのに気づいたかのように、老婆の目ぶたが震え、唇が動いた。「わしはここじゃ死なない、死ぬのは仲間のところさ。焼かれて灰になって、わしはずっと仲間と一緒にいることになるのさ」彼女はゆっくりと目を開けた。その目に輝きはなく、眠気に曇っていたので、何の感情も読み取ることはできなかったが、彼女の声には深い悲しみが感じられた。私は老婆のくぼんだ頬に手を触れた。彼女は私に微笑んだが、心はどこかほかにあるのが見て取れた。
 誰かに見られていることを感じて、私は目を覚ました。私が起きるのを待っていたのだとアンゲリカは言って、私に箱を見るようにと身振りでうながした。木の皮で作られた化粧道具入れほどの大きさの箱が彼女の横に置かれていた。**018**彼女はきっちりと閉まっている蓋を開けると、中に入っている物を見せ始めた。一つ一つの物がまるで初めて見るものであるかのように喜びと驚きの声をあげ、なんとも楽しそうな様子だった。鏡があり、櫛があった。プラスティックでできたおもちゃの真珠の首飾り、ポンズコールドクリームの空き瓶がいくつか、口紅が一本に、錆びたハサミが一つ、そして色褪せたブラウスとスカートがあった。
「で、これはなんだと思うね?」後ろ手に何か持ちながら彼女は聞いた。
 私が分らないというと、彼女は笑った。「こいつはわしの練習帳さ」彼女がページをめくると、その紙は歳月に黄ばんでいた。どのページにも曲がりくねった文字が何列も書かれている。「見てておくれよ」箱の中から噛みあとのある鉛筆を取り出すと、彼女は自分の名前を書き始めた。「名前の書き方を教わったのは別の布教所でのことさ。ここよりもっと大きいところで、学校もあった。ずいぶん昔のことだけど、習ったことは忘れちゃいない」繰り返し繰り返し、彼女は自分の名前をブロック体で書いた。「気に入ったかい?」
「ええ、とても」私は戸惑いながら答えた。老婆は床にしゃがみ込んで前かがみになり、その頭を地面に置いたノートに付かんばかりにしながら文字を書いていたのだ。にも関わらず彼女は、少しもバランスを崩すことなく、自分の名前を一文字一文字、細心の注意を払ってなぞっていた。
 彼女はノートを閉じながら、急に体を伸ばした。「街には行ったことがある」窓の向こうのどこかを見つめながら彼女は言った。「いっぱい人間がいたけど、みんなおんなじ顔に見えた。わしにとっちゃ見るものが多すぎたし、おまけにその騒々しいことといったらなかったね。人が喋るだけでもうるさいのに、物までが喋るんだから」そこで言葉を止めると、顔中のしわが深くなるほど懸命に意識を集中しながら怒った顔をした。そして彼女は言った。「わしはその街のことは、これっぽっちも好きじゃなかったねえ」
 行ったことがある街というのはどこのことなのか、自分の名前の書き方を習ったのはどこの布教所だったのか、私は聞いた。けれど彼女は私の言葉が聞こえなかったかのように私を見つめ、また話を続けた。以前にもしていたように、時間と場所は混ぜこぜになり、自分の母語が入り混じった。**019**時おり彼女は笑って、同じセリフを繰り返した。「わしはコリオラーノ神父の天国には行かんだろうね」
「仲間に会いに行くっていうのは本気で言ってることなの?」私は聞いた。「女が二人で森に入っていくのは危険だと思わない? 道はちゃんと分かるの?」
「もちろん道は分かるさ」ほとんど忘我の状態だったのが、一瞬で普通の状態に戻ると彼女は答えた。「それに年寄りの女に危険はないさ」
「私は年寄りじゃないけど」
 彼女は私の髪をなでた。「お前は年寄りじゃない、けれど、髪はヤシの繊維の色をしているし、目は空の色だ。お前にも危険はないさ」
「道に迷うに決まってるわ」私は柔らかく言った。「最後に仲間に会ったのがいつかも憶えてないんでしょう? 仲間は森の奥へ移り続けてるって言ってたじゃない」
「ミラグロスが一緒に行ってくれるさ」確信に満ちた声でアンゲリカは言った。「ミラグロスは森のことならよく知ってるんだ。ジャングルに住んでる全ての人間を知ってるのさ」アンゲリカは持ち物を木の皮の箱にしまい始めた。「なるべく早く出発できるように、さっさと彼を探すとしよう。それとお前は何か贈り物をせにゃならん」
「彼が欲しそうなものは何も持ってないなあ」私は言った。「友だちが持ってきてるマチェーテをミラグロスにあげるために布教所に置いていってくれるように頼めるかもしれないけど」
「カメラをやるんだ」アンゲリカは言った。「マチェーテがもう一本ほしいのと同じくらいに、彼はカメラが一台欲しいのさ」
「カメラの使い方は知ってるの?」
「さあね」片手で口元を隠しながら、彼女はくすくすと笑った。「先住民族を見に布教所にやってくる白人たちを写真に撮ってみたいって彼が言ってたんだよ」
 カメラを手放すのは気が進まなかった。性能もよく値の張るものだったのだ。安いカメラを持ってきていればよかったのにと思った。「カメラをあげることにするわ」そう言いながらも、ミラグロスにはカメラを使うのがどんなにややこしいかを説明しよう、そうすればマチェーテが欲しいと言うかもしれない、と考えていた。
**020**「荷物は少ないに限る」ばしんと音を立てながら箱の蓋を閉めると、アンゲリカは言った。「この中の物は、全部ここの女の一人にやるとしよう。わしにはもういらんものだ。何も持たないでいけば、誰かに盗られる心配もないってわけさ」
「あなたがくれたハンモックを持っていきたいな」私は冗談で言った。
「そいつはいい考えかもしれん」アンゲリカは頷きながら私を見た。「お前は寝るのが不得意だから、わしの仲間たちが使ってる木の皮から作ったハンモックじゃ多分寝れんだろう」箱を手に取り、部屋を出て行きながら彼女は言った。「ミラグロスを見つけたら戻るよ」

コリオラーノ神父は、コーヒーを飲み干すと、初対面の人物を見るような眼差しで私を見た。椅子を支えにしてやっとの思いで立ち上がると、何が起きたのか分らないとでもいうかのように、言葉もなく私をじっと見た。老人にありがちな沈黙だった。曲がって硬くなった指で、彼が顔を撫でるのを見て、初めて私は神父の老いに気づいた。
「アンゲリカと一緒にジャングルに踏み入るなど、正気の沙汰とは思えませんな」やがて彼は言った。「彼女はかなりの年です。そう遠くまでは行けんでしょう。森を歩いて通り抜けるというのは、遠足とはわけが違う」
「ミラグロスが一緒に行ってくれます」
 コリオラーノ神父は、考え込みながら窓の方へ体を向けた。片手であごひげを前に後ろに撫でつけている。
「ミラグロスは、あなたのお仲間と一緒には行かなかった。アンゲリカが言っても、一緒にジャングルには入らんでしょう」
「彼は行ってくれます」私には確信があったが、理由は自分でも分らなかった。それは日常的な理屈では説明のできない、まったく奇妙な感覚だった。
「ミラグロスは信頼に足る人物ではある。けれど彼は変わり者だ」コリオラーノ神父は言葉を選びながら言った。「彼は今までに何回も、探検にガイドとして参加している。しかし……」彼は自分の椅子に戻ると、私の方に身を乗り出して言葉を続けた。「あなたにはジャングルに入っていくだけの準備がまだできていない。そうした冒険行につきものの困難や危険について**021**想像することすらできんでしょう。きちんとした靴の一足も持っていない」
「ジャングルで履くのに一番いいのはテニスシューズだって、何人もの人から聞いてます。テニスシューズなら履いたままで足を締め付けることなくすぐに乾くし、豆ができることもないって」
 コリオラーノ神父は、私の言葉には答えなかった。「まったくどうして森に入りたいなんて言うんでしょうね?」呆れ返った調子で、彼は訊ねた。「バースさんがマキリタレのシャーマンのところに連れて行ってくれるって言ってるじゃないですか。わざわざ遠くまで行かなくたって、治療の儀式が見られるというのに」
「本当のところ、自分でもよく分らないんです」私は困惑しながら彼を見た。「たぶん治療の儀式以上のものが見たいんだと思います。それで、実をいうと紙と鉛筆をいくらか分けてもらえないかと思って、お願いに来たんですけど」
「お仲間のことはどうなんです? 私に何と言えと? 老いておかしくなった老婆と一緒に行方不明とでも?」コーヒーをもう一杯、自分で注ぎながら彼は訊ねた。「ここに来て三十年以上になりますが、こんなにばかげた話は聞いたことがありませんな」

昼寝(シエスタ)の時間は過ぎていたが、布教所はまだ静まり返っていた。ポマロサの木が二本、ねじれ絡まり合った枝と、ぎざぎざの葉でつくる日陰に吊ったハンモックの中、私は伸びをした。布教所の敷地に近づいてくる背の高いバース氏の姿が、少し遠くに見えた。普段は夕方に来るのに妙だなと思った。そして彼が今ここに来た理由に思い至たった。
 私が横になっている場所にほど近いベランダへと続く階段の脇に立ち止まると、彼はしゃがみ込みタバコに火をつけた。私の友だちが彼に持ってきたタバコだ。
 バース氏は落ち着かない様子だった。立ち上がって歩き始めたが、前へ行ったかと思うと後ろに戻っていき、まるで建物を警備中の衛兵のようだった。私が声をかけようと思ったちょうどそのとき、彼はひとり言を言い始め、言葉が煙とともに口から吐き出された。**022**あごに生えた白い無精髭をなでると、泥を落とそうと片方のブーツでもう一方のブーツをこすった。もう一度しゃがみ込むと、頭の中を巡る考えを振り落とそうとでもいうかのように頭を振った。
「グラン・サバナで見つけたダイアモンドの話でもしに来たんですか」 私は挨拶代わりにそう言って、彼の優しい目に浮かぶ悲しげな様子を吹き払えたらいいなと思った。
 バース氏はくわえていたタバコを口から離し、煙を鼻から短く勢いよく吐いた。そして舌の先についたタバコの葉を吐き出すと訊ねた。「アンゲリカと一緒に森に入りたいなんて、どういうわけなんですか?」
「コリオラーノ神父にも言いましたが、本当のところ自分でもよく分らないんです」
 バース氏は穏やかに私の言葉を繰り返し、そこから質問を引き出そうとした。もう一本タバコに火をつけ、ゆっくり煙を吐くと、螺旋を描いて透明な空気に溶けていく煙を眺めた。「少し歩きましょう」彼はそう誘った。
 私たちは川沿いにゆっくりと歩いた。幅広い木の根が土の中から顔を出し、絡み合い、木と泥の彫刻を形作っていた。生暖かく絡みつく湿気が、じき私の肌を覆いつくした。バース氏は枝と葉が作る覆いの下からカヌーを引き出し、水に浮かべると、私に乗るよう身振りで示した。彼はまず川を横切るようにカヌーを操り、左手の土手が流れの強さをいくらかでも遮ってくれるようにした。正確で力強い動きで彼はカヌーを漕ぎ続け、私たちはやがて小さな支流にたどり着いた。竹の藪から暗く重たい木の茂みへと景色は変わった。川岸ぎりぎりに隙間なく立ち並ぶ木が、果てしなく壁を作っていた。根と枝が水面の上までせり出している。つる植物が木からぶら下がり、自分の幹の周りに巻きつき、絡み合う様子は、何匹もの蛇が互いにきつく締めつけ合っているかのようだった。
「ああ、そこだ」通り抜けることのできない壁としか思えなかった木々の間に、隙間を開けている入り口を指してバース氏が言った。
**023** 私たちはボートをどろどろの岸に引き上げると、一本の木の幹にしっかりと結びつけた。葉が濃く茂り、日射しはほとんど遮られている。藪を抜けていくバース氏のあとをついて歩くうちに、光はかすかな緑へと薄れていった。つると枝が生きているかのように私を撫でた。もうそれほど暑くはなかったが、ねっとりした湿気で服が体にまとわりついた。私の顔はじきに、くたびれた臭いのする植物の屑と蜘蛛の巣で覆われた。
「これは径(みち)なんですか?」緑の水溜りに足を踏み入れそうになりながら、信じられぬ思いで私は聞いた。水の表面は何百もの虫で小さく波立っていたが、泥水のなか無数の点が蠢いているようにしか見えなかった。鳥が何羽か飛び去ったが、緑の影の中その色も大きさも見分けることができず、ただ私たちの侵入に抗議する怒りの鳴き声が聞こえるばかりだった。バース氏はわたしを怖がらせようとしているのだと思った。また、もう一つのカトリックの布教所に行こうとしているのかもしれないという考えも浮かんだ。「これは径なんですか?」私はもう一度たずねた。
 一本の木の前で、バース氏は急に立ち止まった。とても高い木で、梢は天にも届きそうだった。つる性の植物がからまりながら、その幹から枝へと登っている。「きみに少し講義でもして、おどかしてあげようかと思ったんだが」気難しげな表情でバース氏は言った。「話そう思って考えていたことは、今はどれもばかばかしく思える。少し休んだら戻ることにしましょう」
 バース氏はボートを流れにまかせ、岸に近づきすぎたときに漕ぐ以外は何もしなかった。「ジャングルというのは、あなたにはおそらく想像することもでない世界でしょうね」彼は言った。「かと言って、ぼくが説明するというわけにもいかない、ぼくがいかに経験を積んでいると言っても。それはまったく個人的な体験で、ひとりひとりの経験がまったく異なるもので、それぞれに独特なものなんです」
 布教所に戻るのではなく、バース氏は私を彼の家に連れて行った。大きな丸い小屋で円すい形の屋根はヤシの葉で葺かれていた。**024**小屋の中はとても暗く、明かりは小さな入り口とヤシ葺きの屋根に開けられた四角い窓から入るだけだった。窓は生皮の滑車で開け閉めできるようになっている。小屋の真ん中には二つのハンモックが吊るしてあり、漆喰で白く塗られた壁には、本と雑誌で一杯のかごが立てかけてあった。かごの上には、ひょうたん、杓子、マチェーテ、そして一丁の銃が吊り下げてあった。
 裸の若い女がハンモックから起き上がった。背が高く、大きな胸と尻の持ち主だったが、顔は子どものようで、すべすべの肌をした顔は丸く、つり上がった黒い目をしていた。椰子の葉で編んだ火起こし用の扇の横に吊るしてある服に、微笑みながら彼女は手を伸ばした。「コーヒー?」女はスペイン語でそう聞くと、アルミのやかんと鍋が横に並べてある囲炉裏の前の地面に座った。
「ミラグロスのことはよく知ってるんですか?」私はバース氏に聞いた。彼が私を奥さんに紹介してくれ、皆がハンモックに座ったあとのことだ。ハンモックは二つしかなかったので、私と奥さんは一つのハンモックに並んで腰掛けた。
「難しい質問ですね」地面に置いたコーヒー・マグに手を伸ばしながら彼は言った。「彼は来たかと思うと行ってしまう。まるで、ジャングルを流れる川のようでね。立ち止まることがなく、休むこともないようだ。どれほど遠くまで旅するのか、どこにどれだけ滞在しているのか、誰も知る者がいない。ぼくが知っていることと言えば、彼が若い頃に白人によって仲間のところから連れ去られたということだけだ。そして彼のする説明というのが、いつも違ってましてね。あるときにはゴムの採取人たちに連れていかれたといい、別のときには宣教師たちだったという、そして次には鉱山技師だったといったり、あるいは科学者だったとか。誰と一緒だったかはともかく、何年もの間一緒に旅したのは確かなようだ」
「彼はどの民族で、どこに住んでるんですか?」
「マキリタレですよ」バース氏は言った。「けれど、どこに住んでいるのかは誰も知らない。彼は定期的に仲間のところに戻ってくるけれど。どこが彼の属する居住地なのか、分からないんです」
「アンゲリカは彼を探しに行ったんですけど、彼の居場所を知ってるんでしょうかね」
「知ってるんでしょう」バース氏は言った。「二人はとても近い間柄だ。親戚なんじゃないかな」**025**マグカップを地面に置き、ハンモックから立ち上がると、彼は小屋の外に出て、深い茂みの中に少しのあいだ姿を消した。バース氏はじきに、小さな金属製の箱を手にして再び姿を現した。「開けてみて」箱を手渡しながら、彼は言った。
 中には茶色い皮の袋が入っていた。「ダイアモンドですか?」中身を手で探りながら、私は言った。
 微笑みながらバース氏はうなずき、自分の隣の土の床に座るよう私をうながした。彼はシャツを脱ぎ地面に拡げると、袋の中身をその上に空けるよう私に言った。私は、自分のがっかりした様子を隠しようもなかった。並んだ石に輝きはなく、不透明な水晶のようだったのだ。
「間違いなくダイアモンドなんですか?」私は聞いた。
「ぜったい間違いない」バース氏はそう言うと、ミニトマト大の石を一つ、私の手のひらに載せた。「きちんとカットしたら見事な指輪が作れる」
「ここで見つけたんですか?」
「いや」バース氏は笑った。「シエラ・パリマのそばでね、何年か前のことだ」彼は半分目を閉じると、体を前に後ろに揺らした。健康なピンク色の頬には小さく血管が浮いており、あごの無精髭は湿っていた。「ダイアモンドを見つけて金持ちになって故郷に帰る、それが人生で唯一の関心事だったことがある。ずいぶん昔の話だけど」バース氏は大きくため息をついた。小屋の中ではないどこかを視線がさまよっていた。「そしてある日気づいたんですよ、金持ちになりたいという夢が、言ってみれば、いつの間にか枯れ果ててしまっていたということにね。ぼくはもうその考えの虜というわけではなく、かといって、かつて知っていた世界に戻りたいとも思わなかった。それでぼくはここに残ることにしたんです」ダイアモンドを見ぶりで示しながら、バース氏の目は拭われることのない涙で光った。「こいつらと一緒にね」何度もまばたきをしてから私を見ると、彼は微笑んだ。「こいつらが好きなんですよ、この土地が好きなのと同じようにね」
 聞きたいことはたくさんあったが、余計な負担はかけたくなかった。私たちは黙ったまま、川の流れが立てる絶え間なく深い囁きに耳を傾けた。
 バース氏が再び口を開いた。「あなたにも分るでしょうが、人類学者と宣教師には共通点がいろいろあります。どちらもこの土地に悪い影響を与えてるんです。人類学者の方が偽善的ですね。**026**情報を得るためには、嘘をつくことも、騙すことも平気でする。科学の名のもとにはどんなことでも許される、そう信じてるんじゃないですかね、人類学者という輩たちは。あー、どうか口をはさまないでください」バース氏は少し声を荒げ、私の顔の前で手を振った。「人類学者は宣教師のことを私にこう言うんだ」同じ厳しい調子で、彼は続けた。「彼らは傲慢だとね。先住民族に対する態度が、強権的だ、父権的だと言ってね。けれど、人類学者の方はどうですか、中でも一番傲慢な連中ときたら。自分たちには何でもする権利があるとでも言わんばかりに、人々の生活に平気で首を突っ込んでいるんだ」自身の怒りの爆発に疲れ果てたとでもいうように、バース氏は大きくため息をついた。
 人類学者をかばうようなことを言うのはやめておいた。彼がまた感情を爆発させるのではないかと思ったからだ。それで私は手のひらのダイアモンドをよく見ることで、気を紛らわした。「ほんとにきれいですね」そう言って、その石を彼に渡そうとした。
「取っておきなさい」そう言うと、彼は残りの石を拾い上げた。そして、一つ、また一つと、皮の袋の中に落とし入れていった。
「こんな高価な物はもらえません」私は照れ笑いをしながら、言い訳をつけ加えた。「宝石なんてつけたこともないし」
「高価な物だなんて思わないことです。お守りだと思えばいい。街に住む人間だけですよ、これを宝石だなんて思うのは」気さくにそう言うと、石を持った私の手の指を閉じさせた。「あなたに幸運を授けてくれるでしょう」彼は立ち上がると、ズボンの座っていた部分の湿り気を両手でこすった。そしてハンモックに入ると、体を伸ばした。
 三人のマグカップに女がコーヒーを注いでくれた。私たちは甘ったるいブラックコーヒーを飲みながら、夕闇が白塗りの壁を紫に染めていくのを見守った。影が伸びる間もなく、あたりはじき暗闇に包まれた。

アンゲリカが耳元で囁く声で、目が覚めた。「朝には出発だよ」
「何ですって?」すっかり眠りから覚めて、私はハンモックから飛び出した。「ミラグロスを探すのに何日かかかるものと思ってた。荷造りをしなくちゃ」
「荷造りだって? 一体なにを荷造りするって言うんだい? お前の余分なズボンとシャツは先住民族の少年にくれてやったよ。もう一度寝たらいいさ。明日は長い一日になる。ミラグロスは足が速いんだ」
「寝てなんかいられないわ」興奮して私は言った。「じき夜明けでしょ。友だちに書き置きをしないと。ハンモックと薄い毛布がナップサックにうまく収まるといいんだけど。食料はどうするの?」
「コリオラーノ神父がサーディンとキャッサバ・パンを取っておいてくれてるから、そいつを朝つめるさ。わしがかごに入れて持つよ」
「夜のうちに話したのね? 彼は何て言ってた?」
「神の思し召しのままにってね」

チャペルの鐘が鳴り始めたときには、荷造りは終わっていた。布教所に着いて以来はじめて、私はミサに出た。木製のベンチは、先住民族と〈理性の人〉で埋まっていた。誰もが笑いながら話すその様子は、社交の集まりの場のようだった。神父がみんなを静かにさせ、ミサのお祈りを始めるまでにはずいぶん時間がかかった。
 私の隣に座る女は、コリオラーノ神父の大声のお陰で、自分の赤ちゃんはいつもぐずり出すんだと愚痴を言った。赤ちゃんは言われた通りにぐずり始めたが、大きな泣き声を上げる前に、女は胸をはだけて赤ちゃんの口に乳首を含ませた。
 私はひざまずくと祭壇の上の聖母を見上げた。金の糸で刺繍の入った青い外套を着て、その顔を天に向けている。青い目、青白い頬をしており、唇は真紅に塗られていた。片手に幼子イエスを抱き、もう一方の腕は伸ばされ、白く繊細なその手で、足元の見慣れぬ異教徒に触れようとしていた。



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☆続きはこちらです。

[フロリンダ・ドナー「シャボノ」第三回]

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